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ツェルマット、マッターホルン(2) [スイス]

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ゴルナーグラート(3089m)の展望台から周囲を見回すと、アルプスの峰々や氷河がさまざまな表情を見せてくれる。下の写真は、マッターホルン(4478m)から左方向にぐるっと一回りする順で撮ったものだ(ただし、完全には連続していない)。

 

<↓右端がマッターホルン、Matterhorn4478m

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<↓右側の小さく尖った峰がクライン・マッターホルン、Klein Matterhorn3883m。真ん中の丸みを帯びた峰がブライトホルン、Breithorn4164m

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<↓中央奥にある2つの小さな峰の右側がポリュックス、Pollux4092m。左側がカストール、Castor4223m。中央の黒い山塊の右側がシュヴァルツ氷河、Schwärzegletscher。左側がツヴェリングス氷河、Zwillingsgletscherとグレンツ氷河、Grenzgletscher

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<↓中央の右側がツヴェリングス氷河、中央がグレンツ氷河。写真左側に犬かライオンの顔のように見える山塊があるが、その奥がモンテ・ローザ、Monte Rosa。正確には右側のデュフールスピッツDufourspitze4634mと、左側のノルトエント、Nordend4609mからなる>

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<↓右側はモンテ・ローザ、中央はゴルナー氷河、Gornergletscher

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<↓マッターホルンに向かって、ほぼ背中側の光景>

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<↓マッターホルンに向かって、右手の光景。手前の岩肌と遠方の山々の間の谷底にツェルマットの村がある>

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この大パノラマは何度見回しても飽きなかったが、ツェルマットに降りて昼食をとりたいと思い、ゴルナーグラートを後にした。下りの電車からもマッターホルンがよく見えた。やはり一番格好いいのはこの山だ。周囲には他にも高い山はあるのだが、この山が一番高く、他からある程度離れていて、姿が美しい。あと印象深かったのは、モンテ・ローザの手前の岩塊だ(冒頭の写真)。何度見ても、犬の顔に見えてしょうがなかった(笑)。

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ツェルマットの村は、メインストリートが一本あり、その両側にホテル、レストラン、土産物店などが建ち並んでいる。途中、「ツェルマット・妙高高原姉妹都市提携記念」、「ツェルマット&京都ツェルマット会友好記念」などの記念碑を見かけた。日本人にもお気に入りの観光地なのだろう。結局、村はずれまで歩いたが、そこから再びマッターホルンの勇姿を拝むことができた。

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ツェルマット、マッターホルン(1) [スイス]

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2009年の7月末、ジュネーヴから日帰りでツェルマット(Zermatt)、ゴルナーグラート(Gornergrat)へ行った。鉄道ルートとしては、イタリアに行くときと途中までは同じだ。すなわちレマン湖の北岸を西端(ジュネーヴ)から東端(モントルー、Montreux)まで進み、いったん南下したのち、マルティニ(Martigny)から再び東進する。イタリアに行く場合は、ブリーク(Brig)まで行った後、南下し、アルプス越え(実際はトンネルを通過)するのだが、ツェルマットに行く場合は、ブリークの手前のフィスプ(Visp)でツェルマット行きの電車に乗り換える。沿線はゴツゴツした岩山が続き、ツェルマットに近づくにつれ、冠雪したアルプスの峰々がときどき垣間見える。ツェルマットはアルプスに行く手を阻まれた袋小路のどん詰まりに位置する街なのだ。

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ツェルマットから、ゴルナーグラート行きの登山電車に乗り換えると、早々にかのマッターホルン(Matterhorn4478m)が視界に飛び込む。既に観光ガイドブックなどで見慣れた光景とは言え、「実物」となるとそれなりに感慨一入(ひとしお)だ。ゴルナーグラート駅を降りて、ちょっとキョロキョロしてから、少し上にある展望台(レストラン、土産物屋)に向かった。その手前にはなぜかチャペルがあった。ただそれよりも何よりも、360度のパノラマを楽しむことにした。<次回に続く>

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グリンデルワルト、フィルスト(2) [スイス]

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フィルスト(標高2168m)のハイキングコースは、幅の広い砂利道で歩きやすい。傾斜も緩やかだ。スイスの観光地はこうしたコースの整備もよくできている。高山植物は、日本で見るのと同じものが多かった。

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おそらく、このハイキングコースのハイライトは、バッハアルプゼー池(Bachalpsee)と、その背後に見えるシュレックホルン(Schreckhorn4078m)だ。ちょうど曇ってきたのがちょっと残念だったが、なるほど絶景だ。今にも雨が降りそうだったので、帰路につくことにしたが、ゴンドラリフトに乗るとまた晴れてきた。眼下では、牛たちがのんびり草を食んでいた。

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グリンデルワルト、フィルスト(1) [スイス]

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20097月の下旬、ジュネーヴからベルン経由でインターラーケン・オストへ行き、さらにグリンデルワルト(Grindelwald)へ向かった。今回も日帰り旅行だが、前回ユングフラウヨッホへ行った際、ゆっくり見ることのできなかったグリンデルワルトの街を歩き、さらにゴンドラリフトでフィルスト(First)まで上って、しばし高山ハイキングを楽しむのが目的だった。

 

グリンデルワルトの駅を下りると、両側にホテルや土産物店が建ち並ぶ一本道の単純な市街がある。しばらく歩くと左手にフィルスト行きのゴンドラリフト乗り場があり、そのままフィルストへ向かうことにした(下の4枚の写真)。

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ゴンドラリフトがどんどん上って行く途中、後ろを振り返ると、グリンデルワルトの街がだんだん小さくなっていくのがわかる。しかしその背後のアイガーはどっしりと構えたままだ(下の4枚の写真)。

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フィルストで降りると、あとはハイキングだ。いくつかコースがあるようだが、多くの人たちが向かう方向に、私も歩いて行くことにした。<次回に続く>

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ユングフラウヨッホ(2) [スイス]

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ユングフラウヨッホ駅に到着し、外に出てみる。南側には山々に囲まれた巨大な雪原が広がる。ヨーロッパ最長のアレッチ氷河(Aletscgletscher)だ(写真↑、及び↓)。その右方向にはユングフラウ山頂が間近に見える(上から3枚目の写真)。一方、北側に目を転じると、今登ってきた麓の街並みが緑鮮やかな森や草原とともに見える(上から4枚目の写真)。改めて近くの周囲を見回すと幼児や犬を連れた観光客もいる(上から5枚目の写真)。いったい、何と変化の激しい光景なのだろう。

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いくら見ても飽きない光景だったが、帰りの電車が混まないうちに、往路とは反対方向のルートで下りることにした。クライネ・シャイデック駅を出て間もなく右側にアイガーが見え始める。これがかの有名なアイガー北壁かと感慨を覚えた。思ったほど大きくはないが、何せ切り立った岩壁だ。よくこんなところを登る人がいるものだ。

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アイガーを過ぎると麓の町がだんだん大きく近づいてくる。グリンデルワルトだ(一番下の写真)。今回は時間の都合上、ちょっと立ち寄るだけにしたが、是非ゆっくり再訪したいと思った。

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ユングフラウヨッホ(1) [スイス]

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暑い日が続いている。しばらくアルプスシリーズで、気持ちだけでも納涼感を味わうことにしたい。ジュネーヴ在住中の20096月中旬、出張で日本から来られたA氏とともにユングフラウヨッホまで日帰り旅行をした。

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登山鉄道の出発点は、インターラーケン・オスト駅(Interlaken Ost)だ。ここから右回り(ラウターブルンネン駅、Lauterbrunnen経由)でユングフラウヨッホに向かう。左回り(グリンデルワルト駅、Grindelwald経由)でも行けるが、そのルートは帰路に通ることにした。いずれのルートも、クライネ・シャイデック駅(Kleine Scheidegg)で合流し、長いトンネルを潜るとユングフラウヨッホ駅に到着する。

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列車がラウターブルンネン駅を過ぎると、右手にアルプスの山々が見え隠れし始める。ただ、クライネ・シャイデック駅までの沿線は緑の草原で、歩いて昇るハイカーたちや放牧中の牛たちが車窓から見える。しかし、クライネ・シャイデック駅で列車を乗り換え、アイガーグレッチャー駅(Eigergletscher)を過ぎると間もなく、長い山岳トンネルに入る。途中、トンネル内に停車駅があり、ガラスの窓越しに氷雪を被った頂や雪原が見られる。これまでとは高度が歴然と異なることが素人目にもわかる。間もなくヨーロッパで最も高い鉄道駅、ユングフラウヨッホ駅に到着だ。

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それにしても、こんな高いところまでよく鉄道を敷いたものだ。アルプスの岩壁をくり抜いたトンネル工事は相当の難事業だったに違いない。実際、1895年の着工から1912年の開通まで16年間もかかったという。しかしこうした莫大な投資費用は、その後100年間(以上)、十分な収益をあげている。ユングフラウヨッホは何と言ってもスイス観光の中心地なのだ。こういう公共投資なら反対する人はいないのではないか。スイス人はしっかりしている。

 


シオン [スイス]

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ジュネーヴからイタリアへの長距離列車に乗ると、次のルートをとる。まず、レマン湖の北岸に沿ってローザンヌ(Lausanne)、モントルー(Montreux)などを通って東進する。進行方向の右側はレマン湖、左側は傾斜地をブドウ畑が埋め尽くす美しい光景だ。レマン湖を過ぎると、いったん南下してマルティニ(Martigny)に至る。ここから再び東進するが、両側を丘陵に挟まれたローヌ川沿いの帯状の平地が続く。ブリーク(Brig)まで行って、再び南下して長いトンネルを抜けるとイタリアだ。イタリアに入って最初の停車駅、ドモドッソラ(Domodossola)から車窓の外を眺めると、急にイタリアっぽく見える(?)のが不思議だ。

 

ところで、マルティニとブリークの間にシオン(Sion)という街がある。駅のすぐ北側の崖上に教会(写真↑)が建っているのが気になっていた。また、マルティニからシオンまでの北側の岩肌の斜面にはびっしりとブドウが植えられている(写真)。まるで日本の「千枚田」のようだ。

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そんなこともあって、この街にぜひ降りてみたいと思った、この街のシンボルは、駅から見える岩山の上の教会、ヴァレール(Valère)教会とその北の岩山の上に残るトゥルビヨン(Tourbillon)城の跡だ(写真)。まず、葛折りの坂道を探り当てて、ヴァレール教会を目指した。そこからトゥルビヨン城や眼下に広がる市内を見下ろした。郊外にはやはりブドウ畑が広がっている。

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それから街中に降りて、あちこち歩き回った。趣のある建物や街路が続くのだが、人影が少ないのが気になった。その日は日曜日の午後で、スイスの他の街と同様、ほとんどの店は閉店だ。ただそれにしても、あまりに人がいないのは不気味だ。市庁舎近くのプランタ広場(Place de la Planta)も人っ子一人いない。以前、ベルギーの古都、ブルージュ(Brugge)を日曜日に訪ねたときも、出歩いているのは観光客ばかりだった。シオンの場合は観光客もほとんどいない。

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帰途につこうと早めに駅に戻ったところ、少々異様な雰囲気があった。機動隊員が何人も警備しているのだ。帰りの列車内で飲むビールを買おうと駅舎内の売店に入ると、怖そうな兄ちゃんたちが何人か入ってきた。そうこうするうちに、兄ちゃんたちの数は増える一方だ。バーゼル行きの臨時列車のアナウンスも聞こえる。ようやく私も事情が飲み込めてきた。どうやら、この日、スイスの一部サッカーリーグ、FCバ-ゼルとFCシオンの試合があり、それが終わってバーゼルのフーリガンたちが臨時列車で帰るところに出くわしたのだった。別に彼らの写真を撮る気などさらさらなかったのだが、カメラを首からぶら下げていたら、興奮気味の兄ちゃんに、写真を撮るなと、絡まれそうになった。静まりかえる古都の街並みと、荒れ狂う若者のコントラストが、どうも腑に落ちないまま、帰路についた。

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*写真は、最後の1枚を除いて、スイス、シオンにて。最後の1枚は、スイスのサッカー1部リーグ(Super League)のホームページより。同リーグには10チームが所属しており、FCバーゼルは21世紀になってから6回優勝している強豪チームだ。

 


フリブール(2) [スイス]

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(承前)

 

昼過ぎに、街の中心、聖ニコラ大聖堂から駅までいったん引き返したが、今度は商店街の目抜き通り、ローザンヌ通り(Rue de Lausanne)ではなく、崖上に沿ったデザルプ通り(Rue des Alpes)を通った(写真↓)。そこから崖下に見下ろす街並みは、箱庭のように美しく、思わず息をのんでしまった。この辺りがドイツ語地区らしい。

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この街のもう一つの見所は、崖下を蛇行して流れるサリーヌ川(La Sarine)に架かるカバード・ブリッジのベルン橋(Pont de Berne)や、その対岸にある猫の塔(Tour des Chats)、さらにその上にある赤い塔(Tour Rouge)といった城壁、要塞だ(写真↓)。そこから振り返って見えるデザルプ通りを挟んで上下に広がる街並みも美しい。「まるで中世にタイムスリップしたようだ」とはよく聞く陳腐な表現だが、この街は掛け値なしにそうしたデジャヴュ感(既視感)をもたらしてくれた。さすが、12世紀から続く古都だけのことはある。

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フリブール(1) [スイス]

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ジュネーヴからベルンやチューリッヒに列車で向かう途中、ベルンの手前にフランス語でフリブール(Fribourg)、ドイツ語ではFreiburg(フライブルク)という街がある。列車の中から、駅の近くに風変わりな塔(写真↓。アンリの塔と呼ばれる)が見え、ずっと気になっていた。また、ガイドブックを読むと、この街はヨーロッパ有数の古都で、フランス語圏とドイツ語圏の境界にあるという。これはぜひ行ってみたいと思い立ち、スイス滞在も終わり近くなった2009年の8月に訪れた。

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駅から降りて、まず線路の西側にあるアンリの塔やフリブール大学を見学した。ついで街の中心部がある東側に戻り、市庁舎に向かって商店街の緩やかな下り坂を歩く。その先には、街のあちこちから見える聖ニコラ大聖堂がどっしりと構えている。

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この大聖堂のステンドグラスの美しさには目を見張った。ステンドグラスはそれ自体が美しいだけでなく、日光が差し込んだとき、さまざまな色が石壁や床に反射するさまがこれまた美しい。しかし、ヨーロッパで数多く訪れた教会の中で、このカテドラルのステンドグラスほど反射光が美しいところは、そうざらになかった。

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しばらく見とれてから、ランチを食べることにし、駅前の中華レストランに行った。ビュッフェスタイルでおいしかった。このレストランもそうだが、独仏言語圏の境界という割には、フランス語ばかりのような気がした。さて、この街の見所は、大聖堂だけではない。次回それらを紹介したい。

 


バーゼル [スイス]

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スイスのバーゼル(Basel、フランス語ではBâleバルと言う)は独仏との国境の街だ。ライン川最上流の港を持つ街でもある。2009年の7月、私がこの街に行きたいと思った直接のきっかけは、市立美術館で開催されていたゴッホ展を観たいと思ったからだ。この展覧会はUBS銀行の後援で、スイス中に宣伝のポスターが貼られており、ついつられてしまった。

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そんなわけで、真っ先に向かったのは市立美術館だが(写真↑)、肝心のゴッホ展自体は、人出が多かったということ以外、ほとんど記憶に残っていない。観客に押されるようにして美術館を出た後、ぶらぶらと市庁舎を目指して歩いた。マルクト広場の前に立つ赤壁の市庁舎は壁面のフレスコ画や彫像などで有名な観光名所だ(写真↓)。

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市庁舎見学を終えて、ライン川にかかるミットレレ橋(冒頭の写真)を渡り、しばらく歩いてから引き返し、今度は大聖堂を目指して歩いた。大聖堂自体は、一部、修復工事中だったが、内部の見学は問題なく、塔の上にも上った。そこからのライン川や市内の眺めもよかった。

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大聖堂を出てから、ライン川沿いを散策した。スイスの大きな街はたいてい大きな湖の湖畔にある。チューリヒのチューリヒ湖、ルツェルンのフィーアヴァルトシュテッター湖、ヌシャテルのヌシャテル湖、ジュネーヴのレマン湖などだ。バーゼルの場合は湖ではなく川だが、いずれも水とよく調和したきれいな街だ。しかし、正直に告白すると、私はつねにある種の違和感を抱きながらこれらの街を歩いていた。自分が、もしこんな街に生まれていたら、どんな人生を送っていただろうか、ちゃんと生きていくことはできただろうかと不安を感じながら。というのは、スイスの街はどこもあまりにきれいすぎるのだ。

 

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*写真は、上から、バーゼルのライン川にかかるミットレレ橋、市立美術館、市庁舎(2枚)、大聖堂とその塔からの眺望(4枚)、そしてライン川。

 


バーゼルへの車中で乗り合わせたスイス兵 [スイス]

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20097月の土曜日、列車でジュネーヴからバーゼルへ向かった。直通で2時間半くらいかかる。ルートはいくつかあるが、ローザンヌからいったん北上し、その後、ヌシャテル湖の北岸を東進するのが一般的だ。ヌシャテル湖岸を通ったのは、このときが最初で最後だったので印象深い。ヌシャテル(Neuchâtel)の街でいったん降りてみたかったが、旅程上かなわなかった。車窓からお城の写真を撮るのが精一杯だった(写真↓)。

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さて、私は2人掛けの席が対面に向かい合った4人席の1つに一人で座っていた。やがて、軍服姿の若い兵士が2人乗り込んできて、向かいの席に座った。ローザンヌからだったか、もう少し先の駅からだったか覚えていない。また、兵士と言っても軍服を着ていたからそう言ったまでで、二十歳過ぎの普通の兄ちゃんだ。二人はさっそく、小型パソコンを取り出してテレビゲームに興じ始めた。ドイツ語で話していたので、何を言っているのか分からなかったが、とにかく楽しそうだった。そういう年頃なのだろう。

 

終着駅のバーゼルに着く前に一人が降り、もう一人の兵士と私の二人だけになった。彼の方は、さっきまで騒いでいてバツが悪かったのか、観光客にしてはスレた感じの東洋人が珍しかったのか、私にフランス語で話しかけてきた。

 

周知のように、スイスは国民皆兵制を堅持しており、若い男性は徴兵に応じる義務がある。ただ、週末は休暇を取って実家に帰れるらしく、今日はその日だったのだ。私は以前から不思議に思っていたことを聞いてみた。スイスの主要な公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3つだ。独立性の高いそれぞれの州(カントン)がそれぞれの言語を使うのはよい。でも、国軍としてのスイス軍は何語を使っているのか、と。

 

英語? ということはない。3つの公用語を併用しているというのが正解だ。でも、一つの部隊が言語圏の異なる3つの地域出身者で構成されていても問題はないのか? どうやら独仏伊の3言語混成部隊は実際にはまずないようだが、独仏混成部隊は珍しくないとのことだった。指揮命令関係の定型的なコミュニケーションに関しては、一応、両国語を使いこなせるということなのだろう。もっとも、階層的な組織構造を前提とすれば、指揮官さえ両国語を使えれば大きな支障はないのかもしれない。

 

スイスの言語事情と言えば、子供が親の転勤で異なる言語圏の学校に転校したとき、授業の使用言語、教科書類がまるっきり変わってしまうので、適応するのが大変だという話も聞いた。これだけの不便がありながら、共通言語(公用語のうちの一つや、英語など別の言語)を採用しようという話は聞かないし、実態的にもそういう動きはない。例えば、ドイツ語系スイス人とフランス語系スイス人が英語で会話をすることは普通ない(それをやったのが「アメリカ合衆国」という特殊例だ)。最もありそうなのは、ドイツ語系スイス人が片言のフランス語を使うことだ(フランス語系スイス人がドイツ語を話せる確率は低いので)。スイスのように経済合理主義精神が行き届いた国の国民が言語や文化に関しては一切妥協しない、というのはなかなか興味深い現象だ。日本人も、「グローバル化」ということの意味をもっと真剣に考えた方がよい。グローバル化とはアメリカ化の謂だと考えるようなヨーロッパ人はまずいない。

 

さて、二人の目的地、バーゼルが近づき、彼は私に何かプレゼントしたいと思ったようで、鞄の中をごそごそと探し始めた。そして、軍から支給された板チョコを何枚かくれた。«Merci, et au revoir, monsieur.»と思わず言ってしまったが、ドイツ語でお礼を言えばよかったなと、後から悔やんだ。何を隠そう、私は大学時代の第二外国語はドイツ語でA評価だったのだ。悲しいかな、今ではすっかり忘れてしまったが、«Danke schönくらいなら言える。

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*写真は上から、スイス中央部のユングフラウヨッホ山頂近く、スイス北部のヌシャテル、そしてバーゼル駅。

 


「スイス銀行」 [スイス]

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スイスの「ビジネス・モデル」の一端については既に書いたが(201247日付、ローザンヌ-「オリンピックの首都」)、今日はその金融業について触れたい。

 

スイス経済に占める金融業のウェイトは高い。OECDのデータベースを使って、国全体の粗付加価値額に占める産業別構成比をみると、スイスは金融仲介業(financial intermediation)の割合が13.7%2007年)を占める。これは、日本(2007年)の6.5%やフランス(2009年)の5.1%はもちろん、アメリカ(2008年)の8.4%より高い。ちなみに、製造業のウェイトは、スイスは20.0%、日本は20.6%、アメリカは12.6%、フランスは10.6%で、スイスは日本と並んで製造業立国の顔も持つ(高級時計、製薬業など)。

 

スイスの金融業と言えば、直ぐに想起されるのが「スイス銀行」だ。スイスに住み始めてからしばらくして、日本のある雑誌にエッセイを寄稿したが(「ジュネーヴのアパート探し」『日本労働研究雑誌』200923月号)、その中で次のように書いてしまった。「銀行口座の開設も決して簡単というわけではなかったが、インターネットに飛び交っている怪しげな情報(『ゴルゴ13』に出てくる秘密口座の存在、口座開設には最低1000万円以上必要など)は少なくとも一般の銀行に関しては無縁だった。」

 

これを書くとき、スイス銀行協会のホーム・ページも参照したのだが(「秘密口座」の存在をきっぱりと否定していた)、火のないところに煙は立たない、どうやら真実は私が書いたように単純ではないようだ。そのことを垣間見させてくれたのは、2009年、アメリカ-スイス間で起きたある騒動だ。スイスの銀行(やり玉に挙がったのは大手のUBS銀行)にアメリカの高額所得者が税金逃れのために開設している口座に関し、その所有者名等の情報を提供するよう、アメリカ政府がスイス政府当局に要請したところ、スイス側が難色を示したのである。騒ぎが大きくなったのは、リーマンショック後、「タックス・ヘイヴン」に対する国際的な批判が強まっており、スイスも批判の対象になりかねない情勢だったという背景がある。テレビの討論番組を見ていたら、画面の下に流れる視聴者からの意見テロップの中に、「これはアメリカのスイスに対する宣戦布告だ、戦争だ」などという物騒なものもあって驚いた。

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私は、金融の専門家ではないので、スイスの銀行に関して正確な知識があるわけではない。ただ、日本とは、規制のあり方やビジネス・モデルがかなり異なるとの印象を持った。いくつか例を挙げよう。

 

・スイスは全般的に高額所得者が多い国なので、資産運用等のニーズも高いと思うが、そこで生活する以上、当然、日常的な支払いや受け取り、財布代わりなどのリテール機能も必要だ。しかし、こうしたリテール業務を行うことができるのは、スイスの銀行に限られているようだ。私は日本でCiti Bankの口座を持っていたので、口座開設のためジュネーヴのCiti Bankに行ったところ、「ウチはリテール業務はやっていない。スイスの銀行しかリテール業務は認められていない。近くのUBS銀行に行ってはどうか」と言われた。つまり、スイス人の高額の貯蓄は、とりあえずは、スイスの銀行に流れ込むことになっているのだ。

 

・スイスに居住する者の場合、口座開設に必要な最低預金額は高くないが、非居住者の場合、必要額はポンと跳ね上がる。UBS銀行の場合、確か500万円くらいだったと記憶している。つまり、非居住者の場合は、大口預金者に限り、費用対効果の悪い小口のリテール業務の比率を下げようとしているのだ。

 

・預金の預け入れや引き出しだけでなく、送金や振込などもATM機を使うように徹底されている。日本も同じ傾向にあるが、徹底の度合いが違う。私は、国外へやや高額の送金を行う必要があったとき、機械の使い方がよくわからないので、窓口で処理して欲しいと再三訴えたことがあるが、断固拒否された。「海外送金はATM機でしか扱っていない」と言うのである(スイス国内の他行への振り込みも同様だ)。「では、誰か機械操作が分かる行員をつけてくれ」と主張し、ようやく受付係の紳士然としたおじさんを引きずり出したことがある。日本のように、機械操作を手伝ってくれるような優しい感じの嘱託社員は、どこの銀行にもいない(ただ、この点は、スイスが特殊なのではなく、日本が特殊なのかもしれない)。ちなみに、同じ銀行の他支店で、同様の依頼をしたことがあるが、そこでも最初は、「海外送金はATM機でしか扱っていない」と言われた。しかし、その支店にあるATM機は海外送金を扱えないタイプだった(ATM機も複数タイプあり、それによって行える取引の種類が異なるのだ)。そこで、「どうすればよいか」と言うと、「もっと大きい支店に行ってくれ」だった。「窓口ではできないのか」とさらに言うと、「時間がかかるし、手数料も高くなる」とのことで、その手数料があまりに法外な額だったのを覚えている。要するに、リテール業務は徹底的に省力化するとの方針が行き渡っているのだ。

 

さて、「スイス銀行」と言ったとき、主に意味するのは、UBSやクレディ・スイスなど国際的な大手銀行ではなく、プライベート・バンクと呼ばれる銀行だ。私は、その仕組みや業務内容についてほとんど知らないが、外見が一般の銀行と大きく異なることだけはよくわかる。こうした銀行は、しばしば低層の堅固な建物の厚い扉の中にあり、通りから内部をうかがい知ることはできない。派手な看板などは全くなく、扉の横に銀行名を記した金のプレートとインターホンがあるだけだ。こういうところに、世界中の大金持ちや独裁者の大金が流れ込んでいると思うと、それなりに感慨深かった。

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あるときは、国際ルールの創設者、守護者として振る舞い(ジュネーヴ条約など)、また、あるときは独自路線を歩むスイス。「アルプスの少女ハイジ」の可憐なイメージとは裏腹に、なかなかしたたかだ。

 

*冒頭の写真は、スイス、ジュネーヴのレマン湖畔から旧市街を臨む。手前の旗が立っている橋はモン・ブラン橋、中央奥の建物は旧市街の中心にあるサン・ピエール大聖堂。2枚目の写真は、スイス、チューリッヒにて。3枚目の写真は、ジュネーヴの旧市街にあるプライベート・バンクの一つ(その玄関プレート)。

 


ローザンヌ-「オリンピックの首都」 [スイス]

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スイスのローザンヌ中央駅には、堂々と«Lausanne Capitale Olympique»(ローザンヌ、オリンピックの首都)と掲げられている。実際、有名な国際オリンピック委員会(IOC)は1917年以来、この街にあるわけで、このように名乗る資格はあるのかもしれない。だが、私には違和感が残る。古代オリンピック発祥の地がギリシアであることは誰しも認めることだし、近代オリンピックの提唱者、クーベルタン男爵はフランス人だ。それが、なぜスイスのローザンヌなのか?

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国際オリンピック委員会に限らず、スイスには国際機関の本部が実に多い。ネットで有名なものを拾ってみただけでも以下の通りだ(国連機関および一部のよく知られた国際的組織を掲げた)。

 

<ジュネーヴ>

・国連欧州本部(UNOG

・国連貿易開発会議(UNCTAD

・国連難民高等弁務官事務所(UNHCR

・国際労働機関(ILO

・国際電気通信連合(ITU

・世界保健機関(WHO

・世界知的所有権機関(WIPO

・世界気象機関(WMO

・国際移住機関(IOM

・国際標準化機構(ISO

・世界貿易機関(WTO

・欧州原子核研究機構(CERN

・欧州自由貿易連合(EFTA

・赤十字国際委員会(ICRC

 

<ベルン>

・万国郵便連合(UPU

 

<バーゼル>

・国際決済銀行(BIS

 

<チューリッヒ>

・国際サッカー連盟(FIFA

 

こうした国際機関の存在がスイス経済にもたらすメリットは大きい。まず、これらの機関で働く人の給料は、多くの場合、スイス以外の国や組織が負担している。例えば、国連機関の場合は基本的には加盟国の分担金だ(ちなみに、スイスが国連に加盟したのは、つい10年前の20029月である)。しかるに、彼らの消費需要はスイスに落ちる。これは、スイス以外の国から(先進国のみならず途上国も含め)、実質的に対外援助を受けているに等しい。

 

また、これらの国際機関は、世界中から人を集めて頻繁に国際会議を開いている。参加者の滞在中のホテルやレストラン代もスイスに落ちる。かの「都知事閣下」御一行もローザンヌでさんざん散財したと日本の一部マスコミでたたかれたようだが、スイスの物価水準はしばしば日本の倍くらいの感覚だ。そんなところで見栄を張ろうとしたら大変なことになる。

 

こうした「安定」需要以外に、スイスではさまざまな見本市、コンクール、イベント等がこれまたおびただしく開催されている。もともと高原のサナトリウムの町に過ぎず、交通も不便なダヴォスが、今や毎冬、主要国のマスコミが報道する大イベントの中心地である。世界中のセレブの子弟が通うインターナショナルスクールも多数ある。もちろん、アルプス観光をはじめ一般観光客の集客力にも事欠かない。こうした長期、短期滞在の外国人がどれだけスイス経済に貢献しているか、具体的なデータを今持っているわけではないが、相当な額に達することは確かだと思う。

 

観光需要はともかくとして、スイスにはなぜ、かくも多くの国際機関があり、国際的イベントも多いのか? 一つの理由は「永世中立」というブランドイメージだろう。国際機関のうち、赤十字社はスイス人のアンリ・デュナンが創始者なので、これはまだわかるとして、他の多くの国際機関、とりわけ国連機関に関してはこの要因が大きいと思う。

 

もっとも私自身は、「永世中立」という概念には懐疑的だ。世の中に二つ以上の異なる立場があるときに、およそ世の中に存在する者ならば、何をしても、あるいはしなくても、(事態の推移や結果に、何らの影響を持たないという意味で)中立ということはあり得ないと思っている。例えば、クラスにいじめっ子がいて、いじめに荷担したり、いじめを止めさせようとしたりすれば「中立」とは言えないことは異論なかろう。では、身を隠し、息を潜めているだけなら「中立」と言えるのか。それは、いじめに対し消極的にせよ結果的には荷担したことにならないのか。「永世中立」というブランドには、多分にフィクションの要素があるとの考えをぬぐい去れない。

 

それでも、やはりスイスとなるのは、おそらく、この国が「小国」であることも影響している。小国ゆえに、永世中立を唱えてもあまり目立たないのだ。さらに、歴史的経験に裏打ちされた積極的かつ巧みなマーケティング戦略も見逃せないだろう。

 

さて、我が日本もスイスのこうした「ビジネス・モデル」を真似すべきだろうか? 観光資源の開発やそのマーケティングにはさらに力を入れるべきと思うが、国際機関の招致は、実現可能性と効果の両面でほとんど期待できないだろう。スイスの人口は800万人にも満たない。だからこそ、国際機関やその家族の数万人という存在は大きいのである。一方、1億の人口を抱える日本にとって、そのオーダーでは焼け石に水だ。

 

では、日本はどうすべきか? もう少しヨーロッパの他の国の状況なども見た上で考えてみたい。

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*写真は、いずれもスイス、ローザンヌにて。冒頭はローザンヌ中央駅、2枚目と3枚目はオリンピック博物館にて。

 


ローザンヌの「ソニー坊や」 [スイス]

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スイスのローザンヌ(Lausanne)は坂の街だ。中央駅からレマン湖に向かって降りていくと、住宅街を経て、高級ホテルがいくつかある湖畔に達する。オリンピック博物館もその並びだ。一方、駅から坂を上っていくと、商業地区を経て市庁舎、ノートルダム大聖堂(写真↓)等がある旧市街に達する。

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商業地区の坂道を上っていたとき、小さな電気屋さんがあり、そこに珍しいものを見つけた。「ソニー坊や」だ(冒頭の写真)。何せ、「ナショナル坊や」すら消えてしまった日本だ。いわんやソニー坊やとなれば相当なレアものだろう。

それが、なぜ、スイスのローザンヌに「現役」でいるのか? 最初に想い出したのは、NHKの「プロジェクトX」で昔やっていた、ソニーのセールスマンがヨーロッパ市場で苦労してトランジスタラジオの売り込みに成功する話だ(20001212、第33回 「町工場、世界へ翔ぶ(トランジスタラジオ・ソニー)」)。確か、クリスマス商戦で、地元のお客さんたちがソニー製品をクリスマスプレゼントとして次々に買い求めるのを見たセールスマンが、感動で涙するというシーンがあった(もちろん、例のナレーションつきで)。ともあれ、彼らの努力がこうして今も生き残っているのは確かだろう。もっともこの頃ヨーロッパで目立つのは「SAMSUNG」、「LG」などだが・・・。

もう一つ思ったのは、スイス人の物持ちの良さだ。ジュネーヴでは、粗大ゴミ置き場に出された家具などを自家用に持ち去って行く人たちを頻繁に見かけた。別に貧しそうな人ではなく、ちゃんとした身なりの人たちばかりだ。私の印象では、スイス人は倹約家が多い。

そこで新たな疑問が生ずる。みんなが貯蓄に勤しんで消費しなければ、どうやって経済は成長するのか? この点で、スイス人は実に巧みな「ビジネス・モデル」を築いたものだと私は思う。彼らの有効需要創出策とは何か、改めて書きたい。


ベリンツォーナ [スイス]

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スイス(ジュネーヴ)には20089月から20098月までの1年間住んだ。その間、フランス語圏、ドイツ語圏にはそこそこ旅行したが、残り期間も少なくなってきたとき、イタリア語圏はまだどこも行っていないことに気がついた。そこで8月のとある日、イタリア語圏への旅行を思い立った。ちょっと調べた上で行き先として選んだのは、ベリンツォーナ(Bellinzona)という小さな街だ。世界遺産に登録されたお城が3つもあるということで興味をもったのだ。朝早くジュネーヴを発ち、ルツェルンで列車を乗り換え、昼前に到着、帰りは同じルートで夕方にベリンツォーナを発ち、ジュネーヴ着は夜中過ぎという日帰りの強行軍だった。ただ、日の長いヨーロッパの夏は、こうした旅程でも十分楽しめる。

 

まず、町の中心にカステルグランデ(大城)がある(冒頭の写真)。その東側の小高い丘の中腹にはモンテベッロ城がある(写真)。

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さらに、第3の城、サッソ・コルバロ城を目指して、坂道を上っていった。途中、ふと南方に目を向けると眺望が開けているのに驚いた(写真)。その奥には、北イタリアのマッジョーレ湖が見えた。これはちょっと感動的な光景だった。おそらく、古来、アルプス以北からイタリアを目指した旅人たちは、ベリンツォーナにたどり着いて初めて、山越えが終わったなと実感したに違いない。

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一方、イタリアからアルプス以北を目指した旅人たちは、これから先に待ち構えている厳しい山越えを前に、気を引き締めたに違いない(ベリンツォーナから北方を臨む)。

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これと似た情景は日本でも経験したことがある。数年前の夏のある日、木曽路の妻籠から旧中山道を通って馬籠まで歩いたことがある。途中の馬籠峠までは山の中の登り道だが、馬籠峠から先は急に広く明るい眺望が開けるのだ。馬籠宿が数年前、長野県木曽郡から岐阜県中津川市に編入されたというニュースを聞いたが、実際に妻籠から馬籠まで歩いて、その理由がわかった気がした。

 

しかし、ベリンツォーナは明らかに北イタリア圏に属しておりながら、スイス連邦の一州(ティチーノ州)として留まる。これがスイスの面白いところだ。3大文化・言語圏がそれぞれの独自性を捨てることなく、連邦国家を形成し、周囲の強国(ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア)を上回る1人当たり所得水準を実現している。その経済的達成は、連邦国家形成の動因であるとともに、結果でもある、というのが私の仮説だ。

 


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