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岐阜県明智町の「大正村」 [日本]

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前回、20114月に訪れた岐阜県恵那市明智(あけち)町の「大正村」で大正天皇に興味を抱いたと書いたが、そもそも私はなぜこの山奥の「大正村」に興味を持ったのか。それは偶然というしかない。前年の夏まで2年間、ヨーロッパに滞在し、あちこちの国や町を訪ねる機会があった。魅力的なところが多かったが、よく考えると日本にもまだ行ったことのない魅力的な場所がたくさんあるとの思いが募ってきた。人間はわがままなものだ。日本にいると海外に行きたいと思い、海外にいると日本に行きたいと思うのだから。それでネットサーフィンをしていて偶然出会ったのが「日本大正村」だった。

http://www.nihon-taishomura.or.jp/contents/index.html

こうして日本に帰国後8ヵ月ほどして夢をかなえたというわけだ。

 

朝早く東京を出て中央高速で恵那まで行き、そこから一般道に入ったが、途中ダム湖があったりして、山深いところに向かっているんだなと実感した。恵那からは第3セクターの明知鉄道もあり、明智駅まで約50分かかるようだ。

 

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「大正村」の主要スポットは半日あれば十分回れるが、前回取り上げた「大正時代館」以外に、「日本大正村資料館」、少し高台にある「旧三宅家」の近くから見渡す街並みや満開の桃の花がよかった。ヨーロッパも良いけど、やっぱり日本の田舎って良いなと実感した小旅行だった。

 

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「大正村」の大正天皇 [日本]

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岐阜県恵那市明智(あけち)町に、「日本大正村」と呼ばれる一群の資料館、建物、街並みがある。「明治村」のように新たに開発された土地に建物群を移設したのではなく、元々の街並みや建物をほぼそのまま活用しており、特段の境界もない。私は、20114月に連休を利用してこの地を訪れたが、「大正時代館」の大正天皇に関する展示が興味をひいた。昨日(2015627日)、夜7時のNHKニュースを見て、そのことを思い出し、ブログに記しておこうと思った。

 

NHKは、宮内庁に要求していた「大正天皇実録」が開示されたとトップニュースで伝えていた。以前公開を要求した際は、ほとんど黒く塗りつぶされていたという。しかし、報道の限りでは、「実録」の内容は、大正天皇が山県有朋と何度か会っていたとか、学習院時代に進級できなかったとかいうあまりニュース性のないものだった。(「宮中某重大事件」などに関し新たな事実発見があったというのなら話は別だが。)むしろ、この文書の公開をなぜ宮内庁が拒否していたのかに興味がある。NHKニュースが、大正村資料館の大正天皇に関する展示を思い出させたのは、それが私の心にずっとある種の引っかかりを残していたからだ。以下、その時に撮った写真をもとに「大正時代館」の展示パネルを紹介しよう。

 

<大正時代と明知町>

まず、「大正時代」(19121926年)と当時の明知町(現在は「明智」と表記するが、当時は「明知」と表記していた)に関するパネルから。「大正時代の十大ニュース」をみると、大正時代は国際的にも国内的にも新旧勢力の対立が強まり、体制(レジーム)が大きく揺らぎ、あるいは変革され、希望と不安の交錯する激動の時代であったとの感が強くする。国際的には、第1次大戦、ロシア革命の勃発、ベルサイユ体制の成立とナチス・ドイツの挑戦が全てこの時代に起きた。日本では、明治の藩閥政治が後退し、政党政治が台頭したが、それが確立したとは言い難い。桜島大爆発、関東大震災と大きな天災が続き、米騒動など国民の生活への不満が高じた。一方、国際社会における日本国としてのプレゼンスは高まり、それが対華21ヵ条要求などとなって表れた。誰が天皇であったとしても、こうした激しい時代の動きに無縁でいることはできなかったであろう。

 

当時、恵那の田舎町、明知町はこうした時代の奔流と無縁だったとは思わないが、製糸業や商業で栄え、なかなか活気があったようだ。この点は過疎化が進んだ現在と大いに異なる。

 

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<大正天皇>

次に、大正天皇に関するパネルを見よう。まず、「大正天皇の基本解説/正しく評価されなかった天皇」。「幼少期は病弱だったが、九条節子(後の貞明皇后)と結婚後、体調が回復。明治末期に沖縄を除く全国と大韓帝国を回る。」「天皇になってからも、皇太子時代の比較的自由な生活を続けようとするが、明治天皇を理想とする政府には受け入れられず、無理を重ねるうちに再び体調を悪化させる。」「大正天皇が体調を悪化させる1910年代は、・・・ 病弱な天皇とは対照的に、若くて健康な皇太子(後の昭和天皇)を事実上の天皇にしようとする動きが出てくる。その裏では、天皇の病気が誇張され、天皇はあたかも幼少期からずっと病気がちであったかのような逸話が作られてゆく。」

 

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「誕生から御成婚まで(18791900)」。「1879831日、父明治天皇、母柳原愛子(なるこ)の間に誕生。」「明宮(はるのみや。大正天皇のこと)は第三皇子として生まれたが、この時までに生き残った皇子・皇女は一人もいなかった。」「14歳時、束縛や規律を嫌う皇太子は、過酷な学習スケジュールを避けるために、学習院を中退し、赤坂離宮内の御学問所で個人授業を受けることになる。」

 

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「御成婚・行巡啓」。「1900年、嘉仁(よしひと)皇太子(後の大正天皇)、九条道孝公爵四女節子(さだこ)と結婚。皇太子満20歳、九条節子満15歳。」「明治天皇とは対照的に、結婚後の嘉仁皇太子は子供に恵まれた。」「皇太子は御結婚後沖縄を除く全国を巡啓し、韓国も行啓した。この間に健康を回復されたばかりか、臣下や国民の誰とでも屈託なく話したがる性格が、より発露された。」「謹言実直で余計なことはしゃべってはならぬ、という帝王学を身につけていた明治天皇に対し、思ったことは何でも口にするやんちゃ坊主的なところがあった。」

 

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「大正天皇」。「幼少の時は病弱だったが、践祚(せんそ。皇子が天皇の位を受け継ぐこと)直後はきわめて健康的なイメージで、元気に公務をこなした。」「裕仁皇太子(後の昭和天皇)は、思ったことを何でも口に出す(大正)天皇とは正反対に、明治天皇を手本とし、表情を崩さずに威厳を保つことを繰り返し教えられた。」「1919年頃から、まっすぐに立っていることができない、言葉が明瞭に出ないなど明らかな異常が見られ始めた。翌(1920)年、政府は葉山で療養中の天皇の病状を国民に向け発表する。」

 

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「大正天皇崩御」。「19261225日、・・・ 天皇の手を最後まで握りしめていたのは、天皇の幼少期以来久しぶりに接し、その変わり果てた姿を目にした柳原(生母)であったという。」

 

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これらのパネルに書かれた内容がどの程度正しいか、私は判断できない。しかし、明治天皇を支持するグループが大正天皇を快く思わず、昭和天皇への早期のバトンタッチを期待した(あるいは策動した)との仮説はありうるかもしれないと思う。

 

最後に、大正天皇崩御を伝える「東京日日新聞」の号外(大正151225日)。(大正の次の)「元号は「光文」「大治」「弘文」等の諸案があったが」「光文」に決定した、とある。(実際は「昭和」になったので、もちろん誤報。)

 

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<大正天皇宸筆の書>

大正天皇宸筆の書もいくつか展示されていた(いずれも複製)。「公正治化之本(こうせいちかのもと)」。「昔、中国に晏嬰や子産という名君がいた。国は異なるがそれぞれ民政に公平な取り組みをしたために国がよく治まったという。政治の公正さは国を治める基本であるという意。」

 

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「終始一誠意(しゅうしいちせいい)」。「思い立った時から最後まで自らの信ずる道を進む時には、言うことと行うことが一貫して、しかも誠を貫ぬかなければならない。」

 

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「徳感人風動物(とくかんじんぷうどうぶつ)」。「徳とはほどこしの心、人に対するやさしさである。人にやさしさの心を持てば、人の心(風)もなごむものだ。生きとし生けるものすべてに徳の心が行き亘るようにしたいものだ。」

 

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私に書を語る資格など全くないのだが、素人印象として、1枚目と23枚目はかなり書体が異なるように見える。また、2枚目の「意」が尻すぼみに見えること、3枚目の「感」「動」「物」の左払いが異様に長いことなどは、心の不安定さを示しているように見える。


明治神宮・御苑 [散歩]

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昨日(626日)のお昼、原宿の明治神宮・御苑に花菖蒲の写真を撮りにいった。このブログでもこれまで2度取り上げているが(2014613日付「明治神宮御苑-花菖蒲」、201367日付「明治神宮の花菖蒲」)、今年は少し時期が遅かったようで、既に「見納め」時だった。ただ、これまであまり見る機会のなかった睡蓮の花を見られたのは幸いだった。また、新緑の楓もよかった。

 

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鬼怒川、奥日光・湯元 [日本]

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先週の週末(62021日)、気心の知れた飲み友達数人で鬼怒川、日光に行った。初日は鬼怒川で温泉三昧、二日目は奥日光の湯元温泉、湯ノ湖周辺で、雨中の写真撮影。上の写真は湯元温泉で撮ったルピナスという花だが、この時期の日光ではよく見かける。湯ノ湖では、かなり激しい雨の中、腰まで浸かりながら釣りをしている人が何人かいて驚いた。

 

湯元温泉や湯ノ湖は昨夏も訪れたが(2014813日付、当ブログ「日光-刈込湖・切込湖」参照)、その後、テレビ番組で、当時の皇太子(今の天皇陛下)が終戦の年、この地に疎開していたことを知った(*)。今ではその痕跡もほとんどないが、それを知ってこの地を散策すると感慨深いものがある。「夏草や、兵(つわもの)どもが夢の跡」(芭蕉)。

 

皇太子は、19445月から沼津、同年7月から日光、19457月から奥日光・湯元に疎開した。湯元での疎開先、「南間ホテル」は2003年に自己破産し、その跡地は「おおるり山荘」となっている。

 

<鬼怒川>

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<竜頭の滝>

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<日光湯元>

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<湯ノ湖>

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高幡不動尊のアジサイ [散歩]

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先週の月曜日(615日)、東京郊外の高幡不動尊にアジサイの写真を撮りに行った。以前、京王線沿線に住んでいたので「高幡不動」という名前は知っていたが、降りたのは初めてだ。アジサイの名所と聞いていたが、確かに見応えがあった。鎌倉の長谷寺や明月院のように斜面一帯にわっと咲いているわけではないが、境内や山道の両脇のあちらこちらに咲いている様がよかった。また、四国の八十八ヶ所を模した「山内八十八ヶ所」があったので、写真を撮り終った後、全て制覇した。

 

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マグリット展(国立新美術館、2015年6月) [美術]

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六本木の国立新美術館で開催されている「マグリット展」を見に行ってきた。雨が降る平日の朝、10時の開館と同時に入場したこともあり、比較的ゆっくりと見ることができた。そのせいか、いつもよりていねいに画の横の解説文を読んだりしたが、頭が混乱することが多かった(笑)。

 

例えば、馬に乗った女性が林の中を通り過ぎる「白紙委任状」という謎めいたタイトルの画。雑誌インタビューに答えて、マグリットは次のように言ったという。「白紙委任状とは、彼女にやりたいようにやることを認めるものです。目に見えるものは、隠されて目に見えなくなることがあります。しかし、目に見えないものはけっして隠されません。それは、おそらく無視されるのです。現れないのです。感情は、目に見えないものです。オブジェは目に見えます。・・・」 うーむ。あるものが目に見えないとして、それは何かに隠されて見えないのか、元々見えないから見えないのか、どうやってわかるんだろう。感情は「目に見えない」というが、本当に見えないだろうか? 考え出すとよくわからない。

 

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つぎの瓶と人参の画も単純と言えば単純だが、タイトルが「説明」(l’explication)とあるから考え込んでしまう。瓶と人参の横にある第三の物体が何かを「説明」せよというのだろうか。色や形は瓶と人参の属性を部分的に引き継いでいるが、その用途は皆目見当がつかない。展覧会の解説本には、「瓶と人参との間の「隠された」親和性が、まさにその形態にあったことは明らかであろう」とあるが、私にはちっとも「明らか」でない。

 

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ヌードの女性の肌が、部分的に木目に変容しているさまを描いた少々キモイ作品もある。「発見」というタイトルで、マルグリットは、ある手紙の中でつぎのように書いているという(展覧会の解説本、88ページ)。

 

私は絵画においてひとつの重要な発見をしたようです。これまで、私は複数の物を組み合わせてきました。もしくは、ある物をただ置くことがそれを神秘的にするのには十分な場合もありました。しかし、ここで行ってきた探求の結果、私は新しい事物の可能性を見つけたのです。- それは、事物が「次第に」何か別のものになるという能力です。ある物が、別の物へと「溶け込んでいく」こと。例えば、空のある部分が木に見えるようにするのです。これは、私にとって物を組み合わせるのとは、全く違うもののように思われました。なぜなら、この2つの物質の間には、断絶も境界もないからです。この方法によって私は、目が普段とは全く違うやり方で「思考」しなくてはならないような絵画を生み出します。

 

上で見た瓶と人参と第三の物体も、こうした変容の系なのかもしれない。しかし、そうだとしても、いったい目はどのように「思考」したらよいのだろうか。

 

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