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佐々木英一『ドイツ・デュアルシステムの新展開』(法律文化社、2005年) [経済]

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昨年の11月、海外7ヵ国の経営者団体の中堅幹部から話を聞く機会があった。その中で、ドイツのデュッセルドルフの経営者団体が行ったプレゼンのデュアルシステムの話が興味深かった。団体が直面する重要課題として「熟練労働者の不足問題」を取り上げ、それへの対応として、職業教育訓練、高齢者・女性の活用、EU内外の労働力の活用の3つを指摘し、中でも職業教育訓練の重要性を強調していた。日本では、このごろ建設作業者の人手不足が問題となっているが、製造業ではあまり大きな問題としては取り上げられていない。また、人手不足への対応として外国人労働者の活用が問題となることはあるが、日本の若年者に対する職業教育訓練の役割が強調されることは少ない。

 

プレゼンの中にあったドイツの職業教育訓練とは、具体的にはデュアルシステム(企業とパートタイムの職業学校の2つで構成される)のことだ。中等学校を卒業した若者の約6割はこのデュアルシステムの下で職業訓練をスタートさせる。訓練は約350種類の職業をカバーし、23年半かかり、中途退学率(訓練先企業や訓練職種の変更を含む)は約2割という。さらに注目すべきは企業や経営者団体がデュアルシステムの運営に積極的に関わっていることだ(年間240億ユーロを投資、約50万人の訓練生が修了)。さらに、企業にとってデュアルシステムが魅力的である理由を6つ挙げていた。①会社の必要に応じた訓練、②実用的な訓練の重視、③会社生活への順応、④変動の少なさ、⑤採用・訓練コストの節約、⑥優秀な訓練生を選抜する機会。

 

     *     *     *

 

この話がきっかけで、ドイツのデュアルシステムについてもっと知りたいと思って読んだのが、佐々木英一『ドイツ・デュアルシステムの新展開』(法律文化社、2005年)だ。この本の主たるテーマは、ドイツのデュアルシステムが1990年代以降、いかに変容してきたかであり、それをめぐる各種調査、報告書や識者の見解の紹介、解説等を行っている。興味深い内容ではあったが、1980年代までのデュアルシステムがそもそもどのようなものであったのかという説明が簡略に過ぎる点、1990年代以降の変容の理由に関する追究が今ひとつ足りないように感じられた点は少々残念だった。

 

それはともかく、1990年代以降の変容とは、具体的にはつぎのような点である(第1章)。第一は、デュアルシステムに対する社会的評価が低下したこと。かつてはデュアルシステムを修了すれば熟練資格を持った労働者として堅実な人生を見通せたのが、デュアルシステム以外のルート出身者の増加に押され、そうした見通しがより不確実となった。第二は、大学生の数がデュアルシステム訓練生の数を超えるなど、デュアルシステムが量的、質的に低下したこと。具体的には、訓練志望者数の減少、訓練生の平均能力の低下、訓練からの脱落率の上昇、非就業者(訓練修了後)の増加、企業のデュアルシステムからの離脱、職業教育・訓練両機能の低下などである。

 

こうした大まかな趨勢変化とともに、企業の職業訓練財政(第2章)、企業のデュアルシステムに対する評価(第3章)、政府による財政負担(第4章)、デュアルシステムのガバナンス構造(第5章)、学校型職業教育の現状(第6章)で、デュアルシステム変容の実態についてより詳しく分析している。その中でも特に興味深かったのはデュアルシステムの財政負担問題である。デュアルシステムの下では、職業学校部分の経費は州政府が、企業訓練経費は個別企業が負担するのが基本である(p. 103)。ただ、企業訓練の収益は必ずしも訓練実施企業に帰属するわけではない。第一に、訓練生は訓練期間中、当該企業の従業員ではない(雇用契約ではなく訓練契約を結んでいる)。第二に、実地訓練の内容は連邦政府が示した訓練基準に拘束される。第三に、訓練生は訓練修了後、会議所が行う修了試験に合格してはじめて熟練資格(企業を超えた通用性を持つ)を得る。訓練生は、訓練実施企業に就職する義務も権利もなく、企業も訓練生を雇用する義務を持たない。

 

すなわち、公共的な性格の強い職業訓練の費用を個別企業が負担しているとも言えるのである。(もっとも、雇用機会として魅力的な企業と、優秀な訓練生の間では結果的に雇用契約に至ることが多いであろうから、訓練実施企業に全く私的利益が生じないわけではない。)そしてこうした役割分担は、国が労使双方の団体に委任し、それを受けて経営者団体が合意したものとして正当性を有する(「合意原理」:Konsensprinzip)。著者は、こうした合意原理の揺らぎを指摘しているのだが、それにしても、経営者団体や個別企業が国全体の職業訓練システムに積極的に関与するという社会的仕組みはわが国では考えにくい。日本の現状をみるに、職業訓練は個別企業が行うものというのが原則で、長引くデフレ経済下で職業訓練投資は停滞が続いた。一方、未就業者や失業中の転職者に関しては公的支援が必要だが、その規模、実施主体、訓練内容等については問題が多い。私自身も何かいい案はないかと考えあぐねている状態だ。

 

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おそらくドイツのデュアルシステムに最も近い日本の制度と言えば、高度成長期、かなりの数の大規模メーカーで行われていた養成工制度ではないかと思う。中卒者を対象に3年間、企業内の学校(施設)で高校程度の座学を行うとともに、工場の現場で実地訓練を行い、将来の中核的技能者を育成していた(その概略は、例えば上野隆幸「養成工制度の特質と生産性向上への貢献」、東京都立労働研究所『労働研究所報』No. 1919983月を参照)。授業料は無料で、奨学金ないし賃金が支払われたため、経済的余裕はないが成績優秀な中卒男子には魅力的な制度だった。学校(日本の場合、学校の形態を取らない場合も含まれるが)での座学と企業での実習を組み合わせた養成訓練の仕組みである点は、ドイツのデュアルシステムと共通している。一方、日本では、ドイツのように全国的に広く普及した制度ではなく、業種や企業規模の偏り(金属・機械工業の大企業)が大きかった点、教育・実習内容に関しても企業独自性が高かった点、生徒(実習生)は実習先の企業に就職することが前提とされていた点などは異なる。

 

ところで数年前、私が教えている大学のゼミでこの養成工制度の話をしたところ、「それって、トヨタ学園みたいなところのことですか?」と聞いてきた学生がいた。

*トヨタ工業学園のサイトは、http://www.toyota.co.jp/company/gakuen/main.html

私はその学生が豊田市出身であることは知っていたが、話を聞くと、彼のお父さんはトヨタ学園出身の溶接工で、彼自身も高校受験のときトヨタ学園への進学を考えたという。実際には、地元の普通高校から、東京の私大(文系)に進み、地元の銀行に就職したのだが、お父さんは生産現場で働くことの大変さを息子によく語っていたようだ。世界に冠たるトヨタのモノづくりと、そこで働く中核技能者の息子のモノづくり離れ、何とも複雑な気持ちになった。

 


明治村(5)-5丁目 [日本]

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明治村巡りも最終回となった。この地区(5丁目)で特に印象深かったのは、「51.聖ザビエル天主堂」(ステンドグラスから差し込む光の反射光の美しさ)、「52.金沢監獄正門」(郷里での子供時代の思い出)、「64.菊の世酒蔵」と梅林、蒸気機関車(旅愁漂うレトロな光景)、「67.帝国ホテル中央玄関」(オーソドックスな構造美)などである。正門から北門までかなりの距離を歩いたが、正門を発着する帰りのバスに間に合うよう、早足で正門まで引き返した。

 

51.聖ザビエル天主堂<京都市中京区>

*京都市中京区河原町三条にあったカトリック教会。明治23年(1890年)に建てられ、昭和42年(1967年)まで使われた。ヨーロッパで数多くの教会を訪れた経験で言うと、ここのステンドグラスは最もシンプルなデザインに属するが、その透過光が壁や床、机などに反射するさまは最も美しいものの一つだ。

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52.金沢監獄正門<石川県金沢市>

*明治40年(1907年)に建てられ、昭和46年(1971年)まで現存した。ということは、私が中学に入学したころまであったはずで、しかもその跡地は現在、金沢美術工芸大学・金沢大学医学部保健学科の敷地になっているというから、私の実家から歩いて20分ほどだ。しかし、どうもあそこに刑務所があったという記憶が判然としない。小立野台地という丘の上にあり、子供のころはそこまで行くことはあまりなかったからだろうか。

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53.小那沙美島(こなさみじま)燈台<広島県佐伯郡沖美町>

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54.天童眼鏡橋<山形県天童市>

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55.隅田川新大橋(しんおおはし)<東京都中央区>

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56.大明寺(だいみょうじ)聖パウロ教会堂(長崎県西彼杵郡伊王島)

*明治6年(1873年)に日本でキリスト教が許されてから最も早く建設された教会堂の一つ。外観は農家風だが、内部は後期ゴシック様式、と解説パネルにあったが、なるほどそうだ。

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57.川崎銀行本店<東京都中央区>

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58.皇居正門石橋飾電燈<東京都千代田区>

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59.内閣文庫<東京都千代田区>

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60.東京駅警備巡査派出所<東京都千代田区>

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61.前橋監獄雑居房<群馬県前橋市>

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62.金沢監獄中央看守所・監房<石川県金沢市>

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63.宮津裁判所法廷<京都府宮津市>

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64.菊の世酒蔵(きくのよさかぐら)<愛知県刈谷市>

*もとは明治初年、愛知県碧南市で穀物蔵として使用されたもので、明治28年(1895年)刈谷市に移築され、「菊の世 廣瀬酒造」の仕込蔵として使用された。大きく立派な蔵で、裏手の梅林はちょうど満開だった。私は蔵の中にいてシャッターチャンスを逃してしまったが、梅林の背後を蒸気機関車が走っている。

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65.高田小熊(おぐま)写真館<新潟県上越市>

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66.名鉄岩倉変電所<愛知県岩倉市>

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67.帝国ホテル中央玄関<東京都中央区>

*アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトが設計した高級ホテルとして有名(大正12年(1923年)竣工、昭和43年(1968年)解体)。大正12年(1923年)91日の竣工披露式当日、関東大震災が発生したが、この建物の被害は少なかったという。

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明治村(4)-4丁目 [日本]

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この地区では、私の親戚にブラジル移民がいることや、私自身ハワイで2年間暮らしたことなどから、「39.ブラジル移民住宅」や「40.ハワイ移民集会所」が興味深かった。ハワイは、1990年代の半ば、ホノルルのある研究所に勤めていたのだが、そこにマリーという60代の日系女性が経理部長で働いていた。ほかにも日系人は多かったが、その誰とも日本語で話したことはない。実際、2世以降では話せない人が大半だ。しかし、マリー自身は子供のころ両親とともにハワイに来たと言っていたので、両親の日本語を聞いて育ったはずだ。彼女はあるとき、日本語を話さない理由を私にさりげなく言ったことがある。「日本語で銭(ぜに)というのは貧乏人が使う言葉なんでしょ。私の知っている日本語はそういう言葉だから。」

 

34.第四高等学校武術道場「無声堂」<石川県金沢市>

*柔道、剣道、弓道の3つの道場からなっており、大正6年(1917年)に建てられた。「無声堂」の名は「孫子 虚実篇」から取られたものという。

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35.日本赤十字社中央病院病棟<東京都渋谷区>

*日本赤十字社の前身は、明治10年(1877年)、西南戦争の際に設立された博愛社。その後、明治19年(1886年)、日本のジュネーブ条約加入に伴い、翌明治20年(1887年)社名を日本赤十字社と改称し、万国赤十字社に加盟した。

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36.歩兵第六聯隊兵舎<名古屋市中区>

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37.名古屋衛戍(えいじゅ)病院<名古屋市中区>

*明治11年(1878年)に設立された旧日本陸軍の病院。衛戍病院とは衛戍地(軍隊が常駐して防衛する重要地域)の病院の意。

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38.シアトル日系福音教会<アメリカ・ワシントン州シアトル市>

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39.ブラジル移民住宅<ブラジル・サンパウロ州レジストロ市>

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40.ハワイ移民集会所<アメリカ・ハワイ州ヒロ市>

*明治22年(1889年)の建設で、ハワイ島へ移住した日本人が教会として用い、その後、集会所として利用した。

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41.六郷川鉄橋<東京都蒲田・神奈川県川崎間>

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42.尾西(びさい)鉄道蒸気機関車1

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43.蒸気機関車12号・9号・三等客車

*蒸気機関車は、「44.鉄道寮新橋工場(機械館)」の裏手(「SL名古屋駅」)と、明治村の北口(「SL東京駅」)の間を走っている。この写真は、「64.菊の世酒蔵」の裏手で撮った。ロープをはった通路が線路脇まで伸びていたが、おそらく「撮り鉄」用に造ったのであろう。

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44.鉄道寮新橋工場(機械館)<東京都品川区>

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45.工部省品川硝子製造所<東京都品川区>

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46.宇治山田郵便局舎<三重県伊勢市>

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47.本郷喜之床(きのとこ)<東京都文京区>

*明治末年ころに建てられた床屋。この建物の2階を石川啄木が家族とともに間借りしていたという。

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48.小泉八雲避暑の家<静岡県焼津市>

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49.呉服座(くれはざ)<大阪府池田市>

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50.半田東湯(はんだあずまゆ)<愛知県半田市>

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明治村(3)-3丁目 [日本]

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上の写真は、1丁目の高台から望む北里研究所本館・医学館。明治村の建物は高台、低地、林、池など自然の中にうまく溶け込んで配置されているのも魅力だ。

 

24.京都市電

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25.北里研究所本館・医学館<東京都港区>

*北里柴三郎と言えば破傷風やジフテリアの血清療法の考案、ペスト菌の発見など多くの業績で知られる医学者だ。彼は、内務省所管の国立伝染病研究所の所長を務めていたが、大正3年(1914年)、政府は彼に相談することなく、この研究所を文部省に移管(東大の下部組織に)することを決めた。北里はそれに反発して所長を辞職し、新たに設立したのがこの北里研究所である。館内には結核との闘いの歴史や北里の「医道論」の抜粋などが展示されており、明治人の偉大さに改めて感動した。

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26.幸田露伴住宅「蝸牛庵」(かぎゅうあん)<東京都墨田区>

*幸田露伴が多くの作品を著した住宅で、向島寺島町の酒類商甲州屋(雨宮家)の別棟だった。「蝸牛庵(かたつむりの家)」という名前は、露伴がやどかりのように何度も住まいを変えたことにちなむという。

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27.西園寺公望別邸「坐漁荘」(ざぎょそう)<静岡県清水市>

*修復工事中のため、中に入ることはできなかった。

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28.茶室「亦楽庵」(えきらくあん)<京都市北区>

*修復工事中のため、写真を撮ることができなかった。

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29.品川燈台<東京都港区>

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30.菅島(すがしま)燈台附属官舎<三重県鳥羽市>

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31.長崎居留地二十五番館<長崎県長崎市>

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32.神戸山手西洋人住居<神戸市生田区>

*別棟の室内は日本間で、窓の一部は和風になっている。

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33.宗教大学車寄<東京都豊島区>

*宗教大学とは、明治20年(1887年)に設立された浄土宗の大学で、大正15年(1926年)、天台宗大学、豊山大学と合併し、大正大学となった。校舎は昭和43年(1968年)の解体まで使用されたという。

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68.芝川又右衛門(しばかわまたえもん)邸<兵庫県西宮市>

*芝川又右衛門とは、大阪で唐物商を営んでいた富豪で、茶道にも通じた数寄者だった。彼が週末を過ごすための別荘として、西宮の甲東園(こうとうえん)に、明治44年(1911年)建てたもの。

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明治村(2)-2丁目 [日本]

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1丁目の三重県庁舎をざっと見て、その右脇の坂を下りると左手に第四(だいし)高等学校物理化学教室があった。(しつこくルビを振って恐縮だが、「よん」ではなく「し」と読む。これは私に教養があるからではなく、単に地元出身だからに過ぎないが。)正面ではなく左側の入口を入るとすぐのところに「谷口吉郎・土川元夫顕彰室」という部屋があった。私は谷口吉郎(たにぐちよしろう)(1904-1979年)という名前を子供のころから知っている。郷土、金沢が生んだ高名な建築家(東工大名誉教授、明治村初代館長)で、小学生か中学生の時に私の学校に講演に来られたことがある。一方、土川元夫(つちかわもとお)(1903-1974年)の名前は初めてだったが、彼が名鉄の取締役社長として、この明治村を昭和40年(1965年)に開設したのだ。二人は、旧制四高の理科に大正11年(1922年)入学した同期の親友だった。この二人の協力によって明治村ができたと思うと感慨深い。なお、土川元夫という人は、京大の法学部を出て、昭和3年(1928年)名鉄に入社、昭和20年(1945年)名鉄労組を結成し、初代執行委員長となり、翌昭和21年(1946年)には取締役に昇進している。戦後のあるタイプの労使関係を体現する人物としても興味深い。

 

14.千早赤阪(ちはやあかさか)小学校講堂<大阪府南河内郡千早赤阪>

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15.第四(だいし)高等学校物理化学教室<石川県金沢市>

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16.東山梨郡(ひがしやまなしぐん)役所<山梨県山梨市>

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17.清水医院<長野県木曽郡大桑村>

*木曽の須原に生まれた清水半治郎が、東京で医学を学んだ後、故郷に戻って開業した医院。島崎藤村の小説「ある女の生涯」の中に須原の蜂谷医院として登場するという。

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18.東松家(とうまつけ)住宅<名古屋市中村区>

*東松家とは名古屋の中心部堀川沿いにあった商家で、明治20年代後半までは油屋を営んでいたが、油から電気への転換を素早く見抜いて金融業に転換し、昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいた。いつの世の中でも鼻の利く人はいるものだ。

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19.京都中井酒造<京都市中京区>

*以前から酒屋の軒先にぶら下がっているボンボンのようなものが気になっていたが、ここの説明パネルでその正体(?)がわかった。曰く、「杉玉(すぎたま)。杉玉は、酒林(さかばやし)ともよばれ、杉の葉を束ねて玉状にまとめたものです。造り酒屋や酒を扱う店の軒先に新酒が出来たしるしとして吊されます」。

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20.安田銀行会津支店<福島県会津若松市>

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21.札幌電話交換局<札幌市大通>

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22.<欠番>

 

23.京都七条(しちじょう)巡査派出所<京都市下京区>

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明治村(1)-1丁目 [日本]

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314日(金)、愛知県犬山市の明治村を1日かけて見学した。ずっと前から、いつか行ってみたいと思っていたところで、ようやく念願が叶った。敷地は100あるといい、全て歩いて回るのは結構疲れた。また、途中からゆっくり見学するというよりも、全部で67ある主要な建物等の写真を全て撮ることが目的のようになり、駆け足になってしまった。ただ、ところどころ、いろいろと考えさせられることがあったのも事実で、本ブログでは、67の主要建造物等の写真を載せるとともに、ところどころの感想を記したい。(以下の番号は、パンフレット「村内地図」や『博物館 明治村 ガイドブック』2013630日に記されたものである。)

 

1.正門-第八高等学校正門<名古屋市瑞穂区>

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2.大井牛肉店<神戸市生田区>

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3.三重県尋常師範学校・蔵持(くらもち)小学校<三重県名張市>

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4.近衛局本部附属舎<東京都千代田区>

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5.赤坂離宮正門哨舎(しょうしゃ)<東京都港区>

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6.聖ヨハネ教会堂<京都市下京区>

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7.学習院長官舎<東京都豊島区>

*明治時代の学習院長というと乃木希典(まれすけ)が有名だ。実際、建物の入口には彼の写真パネルが置かれていた。しかし建物の説明パネルには、「創建当時、第10代院長であった陸軍大将乃木希典は赤坂の私邸から通ったが、その後の第11代から第17代院長はこの建物を住居として使用した」とあり、乃木自身はこの建物をそれほど使ったわけではなさそうだ。乃木大将というと、漱石の『こころ』に出てくる彼の殉死に「先生」が激しく動揺したさまや、司馬遼太郎『坂の上の雲』における手厳しい評価が交錯する。

 

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8.西郷從道(つぐみち)邸<東京都目黒区>

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9.森鴎外・夏目漱石住宅<東京都文京区>

*鴎外は明治23年(1890年)から1年半ほど、漱石は明治36年(1903年)から約3年、この同じ建物に住んでいた。文京区駒込千駄木町にあり、当初は医学士中島襄吉の新居として建てられたものという。

 

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10.東京盲学校車寄(くるまよせ)<東京都文京区>

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11.二重橋飾電燈(かざりでんとう)<東京都千代田区>

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12.鉄道局新橋工場<東京都品川区>、明治天皇・昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)御料車(ごりょうしゃ)

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13.三重県庁舎<三重県津市>

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犬山(2)-犬山城と有楽苑 [日本]

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犬山最後の日(315日)の午前中、犬山城に上った。織田信長の叔父、織田信康が1537年に築城したと伝えられており、現存する天守の中では最も古いという。山の下の猿田彦(さるたひこ)神社から上ったが、坂道はそれほど長くも険しくもない。せっかくなので天守まで上がったが、高所恐怖症のためベランダに出て1周することはできなかった。ただ、東方にある木曽の御嶽山と西方にある金華山の上にある岐阜城の写真は何とか撮ることができた。帰りは針綱(はりつな)神社から下りたが、梅の花が見頃だった。

 

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犬山城を下りたあと、もう一つの名所、有楽苑(うらくえん)に行った。国宝の茶室、如庵(じょあん)がある庭園だ。有楽というのは、織田信長の実弟、織田有楽斎(15471621)にちなんだもので、有楽斎は尾張が生んだ大茶匠であったという。無料のガイドツアーに従い、元庵(げんあん)、旧正伝院(しょうでんいん)書院、含翠門(がんすいもん)、如庵(じょあん)、弘庵(こうあん)などを回った。如庵は内部を覗くことはできるが、写真撮影は禁止だった。弘庵では、お茶(有料)を頂いたが、別に作法を気にする必要はないというのが救いだった(笑)。

 

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犬山(1)-木曽川と郷瀬川 [日本]

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先週末、金沢に帰省する前、愛知県の犬山市で2泊した。明治村の見学がお目当てだったが、犬山の街自体もよかった。街の北部を東から西に木曽川が流れている。川沿いの小高い丘の上に犬山城がある。城山の下を郷瀬川(ごうせがわ)-川幅は狭いが、1級河川だ-が流れ、木曽川へ注いでいる。郷瀬川の川辺は城見歩道と呼ばれる遊歩道になっていて、水仙や菜の花が咲いていた。地元の人が手入れしているようだった。桜の老木も多く、花見の時期はさぞや見事なことだろう。朝、犬山城の写真を下から撮っていたら、近くの小牧基地のものか、自衛隊機が飛んでいった。もう少し素早く対応していたら、お城と飛行機のツーショットが撮れたのに、とちょっと心残りだ。

 

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金沢-片町・香林坊 [日本]

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奥卯辰山墓地を墓参したあと、天神橋方面から山を下り、昼食をとるため片町・香林坊(かたまち・こうりんぼう)に向かった。片町・香林坊と言えば、昔は金沢随一の繁華街だったが、いつのころからか人出が少ないのが気になっていた。そして、もはやそれは確信となった。日曜日の昼下がりというのにほとんど人がいないのだ。飲食店や小売店も結構シャッターが下りている。これが人口46万人の地方中核都市の繁華街だろうか。

 

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金沢一のデパートと言えば大和(だいわ)だが、昭和32年(1957年)、片町に完成したその本店ビルは昭和61年(1986年)、ラブロ片町という別の商業施設となり、この3月にはそれも閉店となり、建物自体も取り壊されるという。一方、大和本店は近くの香林坊に新築されたビル(アトリオ)に移ったが、このあたりもそれほど人出は多くない。人口が郊外に移動し、そこに新たにできた大型商業施設を利用するようになったのか、あるいはデパートという業態自体が顧客ニーズに対応していないのか。私はラブロ片町には入ったことがなかったが、閉店記念行事として「旧大和ジオラマ展」をやっていたのでのぞいてみた。昭和40年代(私の子供時代)の写真をみると人や車がいっぱいで、まさに隔世の感がある。

 

<↓現在の旧・大和デパート前>

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<↓「人出の日曜日を行く花電車」(昭和42年)北國(ほっこく)新聞社保存写真>

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<↓「交通渋滞の香林坊」(昭和42年頃)北國(ほっこく)新聞社保存写真>

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<↓現在の大和デパート>

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香林坊と兼六園の間の地区は広坂(ひろさか)と呼ばれ、県庁、市役所、県警本部などが集まる官庁街だったが、今や県庁も県警本部も郊外に移転してしまった。だが、レンガ造りの旧制四高旧本館は、金沢大学理学部、金沢地裁、県立郷土資料館、石川近代文学館、石川四高記念文化交流館と用途を変えながら立派に生き残っている。これは老人の気持ちをほっとさせてくれる。

 

<↓旧制四高(しこう)旧本館>

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金沢-久しぶりの奥卯辰山墓地 [自分]

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先週末、金沢に帰省し、久しぶりに父親の墓を墓参した。前回は約1年前だった(2013427日付、当ブログ参照)。自宅からの最短経路は、浅野川を渡り、鈴見台と若松台の間あたりの山道を上るルートだ。このルートは、私が子供のころからさほど変わっていない。結構深い竹林があることは以前から気になっていたが、その辺りをよく見ると、木々が芽吹いたり、野草の花が咲いたり、春の訪れを実感した。

 

あらためてお墓を見ると、昭和49年(1974年)建立。当時、母親は40代半ば、私は10代後半だった。それが今は80代半ばと50代後半。当然の算術だが、この間のさまざまな出来事を考えると、なかなか言葉にならない。お墓の前に咲いていた紅い椿が見事だったが、それに免じて息子の親不孝を赦してもらいたい。

 

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