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「大正村」の大正天皇 [日本]

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岐阜県恵那市明智(あけち)町に、「日本大正村」と呼ばれる一群の資料館、建物、街並みがある。「明治村」のように新たに開発された土地に建物群を移設したのではなく、元々の街並みや建物をほぼそのまま活用しており、特段の境界もない。私は、20114月に連休を利用してこの地を訪れたが、「大正時代館」の大正天皇に関する展示が興味をひいた。昨日(2015627日)、夜7時のNHKニュースを見て、そのことを思い出し、ブログに記しておこうと思った。

 

NHKは、宮内庁に要求していた「大正天皇実録」が開示されたとトップニュースで伝えていた。以前公開を要求した際は、ほとんど黒く塗りつぶされていたという。しかし、報道の限りでは、「実録」の内容は、大正天皇が山県有朋と何度か会っていたとか、学習院時代に進級できなかったとかいうあまりニュース性のないものだった。(「宮中某重大事件」などに関し新たな事実発見があったというのなら話は別だが。)むしろ、この文書の公開をなぜ宮内庁が拒否していたのかに興味がある。NHKニュースが、大正村資料館の大正天皇に関する展示を思い出させたのは、それが私の心にずっとある種の引っかかりを残していたからだ。以下、その時に撮った写真をもとに「大正時代館」の展示パネルを紹介しよう。

 

<大正時代と明知町>

まず、「大正時代」(19121926年)と当時の明知町(現在は「明智」と表記するが、当時は「明知」と表記していた)に関するパネルから。「大正時代の十大ニュース」をみると、大正時代は国際的にも国内的にも新旧勢力の対立が強まり、体制(レジーム)が大きく揺らぎ、あるいは変革され、希望と不安の交錯する激動の時代であったとの感が強くする。国際的には、第1次大戦、ロシア革命の勃発、ベルサイユ体制の成立とナチス・ドイツの挑戦が全てこの時代に起きた。日本では、明治の藩閥政治が後退し、政党政治が台頭したが、それが確立したとは言い難い。桜島大爆発、関東大震災と大きな天災が続き、米騒動など国民の生活への不満が高じた。一方、国際社会における日本国としてのプレゼンスは高まり、それが対華21ヵ条要求などとなって表れた。誰が天皇であったとしても、こうした激しい時代の動きに無縁でいることはできなかったであろう。

 

当時、恵那の田舎町、明知町はこうした時代の奔流と無縁だったとは思わないが、製糸業や商業で栄え、なかなか活気があったようだ。この点は過疎化が進んだ現在と大いに異なる。

 

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<大正天皇>

次に、大正天皇に関するパネルを見よう。まず、「大正天皇の基本解説/正しく評価されなかった天皇」。「幼少期は病弱だったが、九条節子(後の貞明皇后)と結婚後、体調が回復。明治末期に沖縄を除く全国と大韓帝国を回る。」「天皇になってからも、皇太子時代の比較的自由な生活を続けようとするが、明治天皇を理想とする政府には受け入れられず、無理を重ねるうちに再び体調を悪化させる。」「大正天皇が体調を悪化させる1910年代は、・・・ 病弱な天皇とは対照的に、若くて健康な皇太子(後の昭和天皇)を事実上の天皇にしようとする動きが出てくる。その裏では、天皇の病気が誇張され、天皇はあたかも幼少期からずっと病気がちであったかのような逸話が作られてゆく。」

 

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「誕生から御成婚まで(18791900)」。「1879831日、父明治天皇、母柳原愛子(なるこ)の間に誕生。」「明宮(はるのみや。大正天皇のこと)は第三皇子として生まれたが、この時までに生き残った皇子・皇女は一人もいなかった。」「14歳時、束縛や規律を嫌う皇太子は、過酷な学習スケジュールを避けるために、学習院を中退し、赤坂離宮内の御学問所で個人授業を受けることになる。」

 

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「御成婚・行巡啓」。「1900年、嘉仁(よしひと)皇太子(後の大正天皇)、九条道孝公爵四女節子(さだこ)と結婚。皇太子満20歳、九条節子満15歳。」「明治天皇とは対照的に、結婚後の嘉仁皇太子は子供に恵まれた。」「皇太子は御結婚後沖縄を除く全国を巡啓し、韓国も行啓した。この間に健康を回復されたばかりか、臣下や国民の誰とでも屈託なく話したがる性格が、より発露された。」「謹言実直で余計なことはしゃべってはならぬ、という帝王学を身につけていた明治天皇に対し、思ったことは何でも口にするやんちゃ坊主的なところがあった。」

 

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「大正天皇」。「幼少の時は病弱だったが、践祚(せんそ。皇子が天皇の位を受け継ぐこと)直後はきわめて健康的なイメージで、元気に公務をこなした。」「裕仁皇太子(後の昭和天皇)は、思ったことを何でも口に出す(大正)天皇とは正反対に、明治天皇を手本とし、表情を崩さずに威厳を保つことを繰り返し教えられた。」「1919年頃から、まっすぐに立っていることができない、言葉が明瞭に出ないなど明らかな異常が見られ始めた。翌(1920)年、政府は葉山で療養中の天皇の病状を国民に向け発表する。」

 

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「大正天皇崩御」。「19261225日、・・・ 天皇の手を最後まで握りしめていたのは、天皇の幼少期以来久しぶりに接し、その変わり果てた姿を目にした柳原(生母)であったという。」

 

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これらのパネルに書かれた内容がどの程度正しいか、私は判断できない。しかし、明治天皇を支持するグループが大正天皇を快く思わず、昭和天皇への早期のバトンタッチを期待した(あるいは策動した)との仮説はありうるかもしれないと思う。

 

最後に、大正天皇崩御を伝える「東京日日新聞」の号外(大正151225日)。(大正の次の)「元号は「光文」「大治」「弘文」等の諸案があったが」「光文」に決定した、とある。(実際は「昭和」になったので、もちろん誤報。)

 

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<大正天皇宸筆の書>

大正天皇宸筆の書もいくつか展示されていた(いずれも複製)。「公正治化之本(こうせいちかのもと)」。「昔、中国に晏嬰や子産という名君がいた。国は異なるがそれぞれ民政に公平な取り組みをしたために国がよく治まったという。政治の公正さは国を治める基本であるという意。」

 

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「終始一誠意(しゅうしいちせいい)」。「思い立った時から最後まで自らの信ずる道を進む時には、言うことと行うことが一貫して、しかも誠を貫ぬかなければならない。」

 

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「徳感人風動物(とくかんじんぷうどうぶつ)」。「徳とはほどこしの心、人に対するやさしさである。人にやさしさの心を持てば、人の心(風)もなごむものだ。生きとし生けるものすべてに徳の心が行き亘るようにしたいものだ。」

 

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私に書を語る資格など全くないのだが、素人印象として、1枚目と23枚目はかなり書体が異なるように見える。また、2枚目の「意」が尻すぼみに見えること、3枚目の「感」「動」「物」の左払いが異様に長いことなどは、心の不安定さを示しているように見える。


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